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「鬼ごっこという遊び」

  • 2012年9月12日 23:45

  

こんばんは。ご無沙汰しております。

口先三寸。書く書く詐欺容疑でそろそろ警察から逮捕状が出されそうな崖っぷちライター MOTSUです。

 

夏も気が付けば終盤に差し掛かり、残暑と過ごす9月でございます。

今日は私の過ごした今年、2012年の夏の中から気になるテーマを一つピックアップして記事とさせて頂きたいと思います。

 

今日のテーマはタイトル通り、「鬼ごっこ」です。

何故このテーマにしたのかといわれれば、理由は特にありません。

強いて理由付けをすれば、
先日出先近くの公園で炎天下の中を走り回って鬼ごっこをする子供たちを見て、何とも名状し難い郷愁に襲われたからとでも書いておきましょうか。

 

兎角この「鬼ごっこ」という遊び、齢20にして冷静に分析するとトンでもない遊びである事がわかってきます。

まずは鬼ごっこのルールを確認しましょう。

・人数は2人以上

・じゃんけん等で鬼になるプレイヤーと逃げるプレイヤーを決める。

・合図で鬼以外のプレイヤーが逃げ、鬼がそれを捕まえる。

・捕まったプレイヤーは鬼だったプレイヤーと交換。
鬼だったプレイヤーが逃げるプレイヤーへ、逃げていたプレイヤーは鬼になる。

(以下ループ)

 

こんなところでしょうか。

地方によって細かいルールの差はあれど、世間一般的に知られている基本的な鬼ごっこは上記したようなルールであると思います。

 

さて、ではこの鬼ごっこ。

冷静にその遊びを解体し、本質に迫りましょう。

 

まず始めにとは。

 

oniのサムネール画像

 

「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着した。さらに、陰陽思想や浄土思想と習合し、地獄における閻魔大王配下の獄卒であるとされた。(Wikipedia 「鬼」より引用)

 

いやはや、何とも恐ろしい。

まさに地獄の番人。このような闇の権化を何故子供たちはごっこ遊びと称してまで演じる必要があったのか些か疑問である。

 

では鬼の正体も解ったところで前述したルールと照らし合わせて本質を紐解きましょう。

まずは鬼ごっこの大きなバックグラウンドから。

 

鬼は上記の通り地獄における閻魔大王配下の獄卒である。

つまり、鬼ごっこを行う場所=地獄であることは自明。

そこが地元の公園であろうと、学校の校庭であろうと、鬼が居る限りそこは罪人たちが永遠の苦痛を強いられる地獄以外の場所になり得ません。

鬼ごっこが始まる。それはつまり遊ぶ場所(フィールド)が地獄へとシフトした事を意味します。

終わらぬ輪廻を現世で再現する。人間の飽くなき死生観への探究心がそこにあるに違いありません。

鬼ごっこ、遊戯。否、これは"ごっこ遊び"という皮を被った苦行の1つなのです。

 

 

1,人数は2人以上

最初の人数設定。全てはここから始まる。

鬼は1人では意味がありません。罰を受ける罪人が居てこその鬼です。

更に強い拘束力を持つ人数制限もこのゲームには存在しません。

これは恐らく人の罪は深く、際限が無いという日本古来の宗教観の現れでもあります。

恐らく死後、罪人が三途の川を渡り最初に訪れる地獄の入り口がこの人数設定に当たると思われます。

 

2,じゃんけん等で鬼になるプレイヤーと逃げるプレイヤーを決める。

此処が煩悩の試しの場。じゃんけんによって罰を与える側、罪を背負い逃げる側を決める。

可哀想な子供たち。しかしこれは逃れられぬ運命。永遠に続く苦痛の輪廻は此処から始まる。

更にはじゃんけんという何とも運任せな方法でそれらを分けてしまう。不条理。不条理過ぎる。

たった一度の敗北が、この先の運命を大きく左右する。
地獄へ落ちて尚、神に祈る事になろうとは誰も想像しなかったことでしょう。

しかし此処は世界の最果て、地獄。神仏への祈りなど、鬼に一蹴されてしまうことでしょう。

 

3,合図で鬼以外のプレイヤーが逃げ、鬼がそれを捕まえる。

そしてはじまる罪の清算。一体子供たちが何をしたというのでしょうか。きっと彼らには解らない。

人ならざる存在、鬼を前にし為す術も無く立ち尽くす子供たち。その圧倒的な力、圧巻。

彼らに出来る事はただ出来るだけ鬼から距離を取り、身の安全を確保する事だけなのです。

しかし何れは捕まってしまう運命。此処は地獄。罪人たちはその罪を購う為だけに此処に居る。

現世では「我思う故に我あり」であったかもしれませんが、此処地獄では「我罪購う故に我あり」が基本概念であり、絶対的な法なのです。

 

4,捕まったプレイヤーは鬼だったプレイヤーと交換。
鬼だったプレイヤーが逃げるプレイヤーへ、逃げていたプレイヤーは鬼になる。

非常に哲学的。それまで罪を洗い流す事がだけが全てであった罪人が捕まった瞬間にその役目を終え、次はその罪を咎める鬼となる。そして鬼であったものがその役目を終え、罪人に罰を与えた罰を受ける。

これこそが地獄が地獄たる所以。計算され尽くしたシステム。終わらないサイクル。

鬼ごっこ、此処に極まれりといったところでしょう。

 

 

そしてこの地獄の遊びに明確な終わりは存在せず、半永久的に続きます。

一体誰が何の為にこんな残酷な遊戯を考案したのでしょうか。
地獄の入り口、三途の川の岸には"賽の河原"という親よりも先に死んでしまった子供がその罪を清算する場所があるそうで、そこへ送られた子供たちは来る日も来る日も石を積み上げては鬼に崩され、また積んでは崩されという終わらない作業を強いられているというのです。1つ積んでは父のため。2つ積んでは母様と。鬼ごっこはまさにこの賽の河原と同じであるように思えます。

 

では、この遊戯から学べる事は一体何なのか。
地獄である手前、健やかな体等手に入るはずがありません。

遊戯参加者は全員、閻魔様配下の獄卒である鬼か地獄へ堕ちるべくして堕ちた罪人。

これまでの鬼ごっこの背景を踏まえ、個人的な考察を交えた鬼ごっこから学べる事は以下3つです。

 

1,罪の意識

子供たちへ物事の善悪を説き、社会的なリテラシーを身に付けさせる事は容易でありません。
ましてや大人でさえままならないような事を子供へ説くなどお門違いも良い所です。

しかしそれが子供同士ならどうでしょうか?互いに罪を指摘し合い、償う事の尊さを理解し合う。

その為に誰かが鬼になり、時には鬼も入れ替わり、相互的な関係を構築する。

非常に合理的かつシステマチック。「悪い事をすれば捕まる」というごく一般的な常識を、道徳の学習としてでは無くポップな遊びを通じることで子供たちは確実に学ぶ事でしょう。
 

2,死生観

「人が死んだらどうなるのか」という難儀なテーマは宗教の中でも諸説あります。

しかしどれも死後の世界、今を生きている誰もそれを知り得る事が出来ません。
言葉や絵でそれらをアウトプットする事は可能ですが、子供たちにその世界を理解させる為にはもっとシンプルな方法が必要です。

それがこの「鬼ごっこ」です。実際に子供たち自身が鬼を演じ、罪人との関係性を明確にする。
これほど明快かつ直感的な方法は他にありません。

「人が死ねば、鬼に追いかけ回されるような酷い仕打ちが」という理解し難い死生観を、この遊びでなら学ぶ事が出来ます。「でも全員が地獄へいく訳ではないでしょう?天国へ行く人はどうなるのよ?ん?」と思った貴方。いいですか。人生、どんな時でも最悪のパターンにさえ備えていれば大抵の事は乗り越えられます。そうした人生哲学を実地で学ぶ事もこの遊びの狙いであると考えられます。

 

3,世界の不条理

鬼ごっこには原則として終わりがありません。子供たちは息を切らしながら罪を責めては償う事を繰り返し続けます。しかしそれすらも凌駕する現世の鋼の掟があります。それは「門限」です。

これこそが子供たちの中での遵守すべきルール。破れば即与えられる罰。

遊戯として罪を学び、実際の罰に怯えながら家路に就く。

「おいなんだよこれ。なんなのよ。」

きっと多くの子供たちはそう不満を漏らす事でしょう。多くの戒律によって世界が回り、その拘束の下でしか生きてゆけない事への歯痒さ。これこそが世界の不条理。
これこそが鬼ごっこを通じて最も学ぶべき生きる為に培わなければならない思想なのです。

 

 

さて、長々と書き綴ってしまいましたが如何だったでしょうか?

誰しも必ず一度は経験したことのある鬼ごっこ。実はこれだけ奥の深い遊びだったんですね。 

真夏の炎天下。焦土のような地獄と化した公園で、明日もきっと子供たちはこの遊びを通じて多くの哲学を学ぶことでしょう。

 

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