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地震、雷、火事、親父の「親父」って本当は「大山風(おおやまじ)」って台風を意味する言葉がなまって「親父」になったんだよ。知ってた?

  • 2011年4月 5日 23:36

なんだかすごく長く感じたこの三週間。
そろそろ地震の時何していたか書いてみようという気持ちが湧いてきた。
というかなんだか書かないと、情報の流れにくっついていくのに必死なあまり
もしかしたらあの地震の時のことを思い出すとき、
ただ「大変な時だった」というあっさりとしたものしか残らないかもしれない
そんな気がしたので、包み残さず書きたくなった。

東京人の私が直接的にくらった被害といえば、

帰宅が困難だったことくらいだったことくらいで
一週間ほどで日常が戻ってきたことにより
情けない話もう記憶が風化し始めている。

あんな異常事態をたったの一カ月も経たないで
忘れてしまうなんて愚鈍というか忘れっぽいというのか
家族や親せきも誰も怪我がなく、
停電にもならない、電車も復旧して当たり前の日々に戻ったら
やっぱりこうやって忘れていくもんなのだろうか。
なんて、少し自分の記憶に幻滅したりする。

かたや被害者の半面、日常が戻ればもう傍観者となってしまったのだ。

疑ってしまうテレビとそれを話題に話す日常のギャップ
ツイッターで流れる追い切れない情報とデマ
海外と日本の情報格差に風評被害

傍観者でいると
毎日の生活でいた、真ん中でどっしりと腰を落とす日々の調和が消え、
かすかに出てきた不安が代わりにその場所に座りだしたのを
感じる

これが日々感じる違和感の正体だろう。
だから、何かしないといけない、じっとしていられない。

何かをすることでその違和感を紛らわせることが出来る。
今書くこともその類だ。




14:46 地震発生

そこから12時間ほど経った明治大学リバティタワーから話を始める。

私は最初江古田で帰宅難民していたのだが、
地下鉄の復旧で家に帰れる可能性が生まれ、
その可能性に賭け、志半ばでお茶の水で足止めを食らった
哀れな帰宅難民Aであった。

路上には多くの人々が歩き、
車がどこの道路でも渋滞をしている上一向に動く気配がない、
コンビニは全く品物がなく、
せいぜいあってもガムかグミか栄養ドリンクが
残ってるくらいで何軒回ってもどこもパンひとつない状況。
「異常事態ってどういうことをいうの?」と聞かれれば、
今の状況だぜと言いたいくらい、この時は異常事態だった。

何よりも驚いたのがコンビニ以外の24時間営業の店が軒並み閉店していたことで、
まだ肌寒い3月の深夜において帰宅難民は個人営業の飲み屋か
受け入れをしてくれている大学やホテルなどに身を寄せるしかなかった。

家族が無事だということも確認していたので、
正直ここまでの間少し難民という非現実を楽しんでいる節があった。
だが、受け入れをしている明治大学に入って、
ようやく真面目に自分のおかれた状況を考えるようになる。

大講堂、エントランス、教室、廊下、ありとあらゆる場所に人がいる。
正直ここまですごいなんて思ってもいなかったので、呆気にとられた。
せいぜい多くても100人くらいだろうと思っていたが、
500人近くもの人が明大に避難していた。

とりあえず私は乾パン配布の列を並び乾パンをもらい、パソコンと携帯の充電をしつつ、これから先どうするか考えながら辺りをずっと観察していた。

多くの人は眠ったり、
テレビでニュースを見ていたりしている。
友人同士だろうかモンハンやっている同い年くらいの4人グループ、
ソファの方をみると知らない人同士だろうか、
たどたどしく互いがどういった経緯でここまで来たのかを話している男女もいた。

テレビからは連絡を取れない人の名前が淡々とあげられ、
お台場が煙に包まれる映像と 千葉のガスタンクが爆発する映像と
津波の映像と各地の地震の被害が繰り返し流れている。


うまく状況を飲み込むことは出来なかった私だが割と落ち着いていた。
明日朝からバイトあるけど、
どうなるんだろうなんてくだらないことを考えてたくらいに。

決して世界が終るわけでもないし、ましてや自分は五体満足で家族も無事だ
何一つ悪いことは起こってないし、腹も減ってない。

だから、緊迫感も危険もあまり感じていなかった。
普段より少し感覚がぴりぴりしている。
そのくらいだった。

辺りにも泣く人も怒りをぶつける人もいなく、誰もが冷静だった。
もっとヒャッハーするもんだと思っていたのだが、それは2ちゃんの見過ぎだった。

どうせ死ぬなら、
ファミチキを2個食べたい。
もしくは二郎。

緊張感もへったくれもない私は
じっとしていられず食欲に動かされるがまま明治を後にした。

神保町に足を向ける、神保町二郎は淡い期待もむなしくやっていない。
ついでに本屋街を窓越しに覗いてみたが、
そこまでひどい被害を受けているようには見えなかった。
神保町界隈が割とホームな私は安心し、
ファミチキは店員に頼んで揚げてもらった。

相変わらず人も至るところにいるし、
車は歩く方が速いと思うくらい動く気配がない。
そういった異様な光景にも慣れてきた私は明大に戻ることもせず、
少し歩くことにした。

東大が受け入れをしているというツイッター情報を元に東大に行ってみた。
初めての東大がこんなことで入るとはなぁと少し残念に思いつつ、
避難場所の地図を渡され、そこまで行く。

なんて幻想的な建物だろう。深夜3時手前。
誰もいない東大内を一人歩いていた私は、
地震があったことを忘れ、
少しかじかむ空気の中、東大の空間と私だけの世界に
ちょっと酔っていた。

避難所に着くと布団を配布された。
避難所は体育館の一角で
明大とは違い20人くらいしかいなかった。
ラジオが館内に響く中誰もが寝静まる、「THE 避難所」といった感じの場所だった。
私はコートを枕にし、配布された布団にくるまった。
寝付けないので明大でもらった乾パンをなるべく
音を立てぬようにかじりながら、朝を待った。

朝5時手前、始発が動いているかもという
期待を持ったまま東大を出るが、
その期待は裏切られ、
動く気配すらない千代田線にいらいらしていた。
心身ともに疲れ始めてきた。
バイトは確か7時半だっけとか思いつつ、
そのくだらない理由のため行けるとこまで行こうと

日暮里。

6時過ぎくらいにホテルランクウッドという場所に辿りつく。
ここで毛布をもらいほうじ茶をもらう。
携帯がなる。

内容は驚愕のものだった。

バイトがなくなったと。

そりゃそうだよねと思いつつ、
私はバタンと深い眠りについた。
地震速報がビュインビュインと鳴る中、
全く夢も見ないまま
8時過ぎまで寝た。

長い一日だった。
それから家に着いたのは昼過ぎになってからであった。
こんなに帰るのに手こずったのは後にも先にもこの時くらいなものだろうと思い

最初から動かなければよかったと後悔した。



いつの間にかスピカさん止めていた。
ということで日藝は私一人だけになってしまった。

誰か誘おうかな。

さてと、そろそろ腐りきった話を書きます。

京都の話を。

もう曖昧なところもあるけども、いっちょ書いてみます。

ではでは。

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